~「ナイショのつながり」の呪縛から、親子で自由になる~
■ 「友達がいれば学校に行ける」という、親の切実な願い
スガヤ: スミレさん、前回は「物理的な場所よりも、安心できる関係性が居場所になる」というお話でした。非常に納得した一方で、親として正直な気持ちを言わせてもらうと……やっぱり「学校に一人でも”何でも話せる親友”がいれば、あの子も楽しく通えるんじゃないか」という思いが消えないんです。そう信じて、今は少し我慢してでも通い続ければ、いつか「当たり」を引く日が来るんじゃないか?って。そして学校は、そんな「宝探し」ができる場所だと期待してしまっている自分がいるんです。そうした期待から、「学校に行かないと”よい”人間関係を築けなくなる」なんて言説が生まれているのでないか?と
スミレ: スガヤさんのそのお気持ち、よく分かります。「母数の多さ」に希望を託したくなるのは、お子さんの可能性を信じたいからこそですよね。
ですが、実はその「いつか親友に巡り会えるまで我慢する」という前提が、今の状態のお子さんにとっては、最もエネルギーを消耗させる「ハイリスクな賭け」になっている可能性があるんです。私の論文では、そこを社会学的な視点から紐解きました。
スガヤ: ハイリスクな賭け……。親の期待が、救いではなくリスクになっているんですか。
スミレ: 論文では、佐橋慶彦氏の理論や東畑開人氏の知見を引用して、人間関係を大きく2つの性質に分けて考えました。一つが「ナイショのつながり(親密性)」、もう一つが「シェアのつながり(共同性)」です。スガヤさんはじめ多くの保護者が期待されている「何でも話せる親友」は、前者の「ナイショのつながり」です。これは深い絆で結ばれる素晴らしいものですが、一方で、今の社会(特に学校)では非常に「コスト」が高い関係なんです。
■ 「ナイショのつながり」という、美しくも重い檻
スガヤ: 「ナイショ」と「シェア」。なんだか現代的な響きですが、具体的にどう違うんですか?私的と公的みたいな?
スミレ: まず「ナイショのつながり」は、家族や親友、恋人のような関係です。自分だけの秘密を共有し、「私とあなた」という特別な絆で結ばれる。これは「親密性」と呼ばれ、孤独を癒やしてくれる素晴らしいものです。でも、これには負の側面もあります。
スガヤ: 「ズッ友」とかいうやつですね。その……負の側面、ですか?
スミレ: はい。深い関係になればなるほど、相手を傷つけるリスクも高まり、相手からの期待が「重荷」に変わります。特に学校という閉鎖的な空間では、「ずっと一緒にトイレに行こう」「同じグループの悪口を共有しよう」といった、排他的な同調圧力が生まれやすい。論文でも触れましたが、この「ナイショ」のつながりから一度こぼれ落ちたり、その維持に疲れたりすると、子どもにとって教室は一気に「敵地」に変わってしまうんです。
スガヤ: あぁ……耳が痛いです。ボクのムスメも、「友達と遊びたいけど、学校で”親友”が嫌がるから、あの子/グループと遊べない」と漏らしていた時期がありました。親が「親友を作れ」と言うのは、子どもに「その重い檻の中に入って、”うまく”やりなさい」と強いているようなものだったのかもしれませんね。
不登校支援の現場では、よく「心のエネルギー」という言葉が使われます。一方で「ナイショのつながり(親密な関係)」を維持するには、実は膨大なエネルギーを消費することがわかります。
・相手の顔色を伺い続けるコスト
・自分の秘密(不登校であることの引け目など)をどこまで明かすかの葛藤
・裏切られた時の壊滅的なダメージ
つまり、特にエネルギーが枯渇しつつある前駆~混乱期の子どもにとって、こうした「深い関係」の維持は”穴の空いたバケツ”状態。
親の一方的な「友だち(~親友)」への高い期待値を下げ、いっそ今は「人間関係フリー」に導いてあげることが、解決のヒントなのかもしれません。
■ 「シェアのつながり」が、社会へのスモールステップになる
スガヤ: では、もう一つの「シェアのつながり」について教えてください。これが不登校の子にとっての「救い」になるんでしょうか。
スミレ: そう考えています。「シェアのつながり(共同性)」とは、「たまたま同じ場所にいる」「同じ課題や活動に取り組んでいる」という、緩やかなつながりのことです。深い秘密の話はしなくても、挨拶を交わす、掃除を一緒にする、あるいは隣で一緒にゲームをするといった、時間や場所を「シェア」している状態です。
スガヤ: それなら、エネルギーが少なくてもできそうです。
スミレ: そうなんです。論文で引用した佐橋氏は、「学級(教室)には、価値観も性格もバラバラな人間が集まっているのだから、そこは『ナイショ』ではなく『シェア』のつながりを基本にすべきだ」と述べています。 「みんなと仲良く(=全員と親友に)」という呪縛から解き放たれ、「価値観は違っても、この時間を共に過ごす仲間」として互いを尊重し合う。この「シェアする力」こそが、多様な人が共存する現代社会で生き抜くための、本当の意味でのソーシャルスキル(SEL)なんです。
■ 挨拶ができる。それは立派な「シェア」の成果
スガヤ: なるほど……。「親友がいない=社交性がない」と決めつけていたのは、ボクの大きな間違いでした。「親友はいなくても、近所の人と挨拶ができる」「オンラインゲームで知らない人と協力プレイができる」というのは、立派な「シェアのつながり」を築く力があるということですね。
スミレ: その通りです。 むしろ、今の社会は「一人でも完結できること」が増えたせいで、こうした「ちょっとした助け合い」や「場所の共有」というシェアの感覚が希薄になっています。だからこそ、SELの実践として、意図的にこの「シェアする力」を育てていく必要があるんです。
スガヤ: 親ができることは、子どもに「親友」を強要することではなく、「今日もあの場所で、誰かと時間をシェアできたね」と、その小さな一歩を認めてあげること。そう考えると、親自身の心も、ふっと軽くなる気がします。
スミレ: はい。深い「ナイショの関係」は、無理に作るものではなく、穏やかな「シェアの関係」を続けていく中で、稀に自然発生する「贈り物」のようなものです。まずは、安全な基地から一歩出て、誰かと場所をシェアする。その安心感を積み重ねていきましょう。 次回は、この「シェアの感覚」や「安心感」を、具体的におうちの中でどう育んでいくか。明日から使えるSELの実践についてお話しします。
スガヤ: 「おうちでできるSEL」。最も実戦的な回になりそうですね。次回もよろしくお願いします!
