※「脱学校の社会」(イヴァン・イリイチ 日本語版1977年)のブックガイドを、複数回に分けて読み開きます。ぜひ共有したい内容なのですが、約50年前の哲学書ということで、読みづらさも感じられます。そこでいつもの体裁を改めまして、運営者スガヤ=「ボク」の私見も含めて、”いつもの勉強会風に”やや砕けてお届けします。
※一部やや過激な、学校批判ともとれる内容がありますが、あくまで原文に忠実にお届けしています。個人の思想とは(似ていても)異なることをご了承ください。
前提:ボクは「アンチ学校」ではありません。
前回、「学校は工場」などと少々(かなり?)語気荒く語ってしまったので、もしかすると「過激派なのか?」と思われてしまったかもしれません。
なので第2回本題に入る前に、少しだけ予告と補足。
まず予告で、今回は誰も、何も批判しません。
ボクが語る「脱学校」は、決して「学校に行くな!」とか「学校なんて消えてなくなれ!」という暴論ではありません。 むしろボク自身、HP(体力)さえ続くなら、「学校/会社は、行けるなら”正しく”行ったほうが(コスパ的に)お得」とさえ思っています。実際ボクは学校に対して、恩はあっても怨念はありません。
1977年に日本版が発行された「脱学校の社会」(イヴァン・イリイチ)という古典をわざわざ引っ張り出して、連載をする理由。ボクが伝えたい「ざっくりした結論」を先取りするならば、以下のとおりです。
- 学校という「システム」は完璧じゃない。 良い点(効率よく学べる)もあれば、悪い点(画一的すぎる)もある、ただの「道具」です。
- 環境は「運ゲー」(加えて「親ガチャ」も)。 地域の学校がどんなで、担任の先生が良い人か?クラスメイトと気が合うか、どんな遺伝子や家庭環境か。これらは自分では選べない「運ゲー」要素が強すぎるなかで
- 「成績」はただの「リザルト画面」。 たまたまその1プレイで出た結果にすぎません。こと”キミ”の人間としての価値とは何の関係もない。
- 学校とは合わなくて「普通」。 あるデータでは、生徒うち”約4割”が「本来学校というシステムに合っていない」と言われています(これについては後述します)。
だからこそ 「学校に学びの”全て”を委ねるのをやめて、ゆるやかに『依存先』を増やしませんか?」とお伝えしてみたい。そして「不登校はその一助(きっかけ)になる」とも。
「学校」という”一本足打法”で立つのは、あまりにリスクが高い。 「学び」は人生を通して「生殺与奪」まで関わる重要な話ですから、学校に”委ねたきり”では義勇先生に怒られてしまいます(「生殺与奪の権を”学校のみ”に委ねるな!」)
だから学校”以外”の場所で、「学びの手段(依存先/逃走経路)」をいくつか持って備える。そうすれば学校がしんどい時、または最悪焦げ付いた場合は”別手段”に切り替えれば良い。または世界のオータニにあやかり二刀流だって素晴らしい。
それこそが、ボクの提案する「脱学校(=学校への過度な依存からの脱却)」です。
さて誤解を解いたところで(解けました?)、本題に戻りましょう。 今回は、そんな「学校以外に杖がない」と思い込まされているボクたちが陥る、「想像力の貧困」の正体についてお話しします
ゴールのないマラソンと、HP1のボク(またはHP少なめ界隈)
前回ボクは、「学校という名の”工場”」から逃げ出した話をしました。 「過程(我慢して座っていること)」ではなく「実体(成果と自分の時間)」を選んだ結果、僕は7回の転職を経て、今の自由な働き方を手に入れました。
でも正直に言いえば、大企業の正社員からの「レールから外れること」はメチャクチャ怖かったし、実際大変でした。
「いい学校に行き、いい会社に入れば、幸せになれる」 …この呪いは強力です。ボクたちは学校で、テストの点数、あるいは偏差値という評価/成績が少しでも下がると、「自分の価値」まで下がったように感じました。そして今でも、上司からの評価や年収が下がると「不幸」になると信じ込んでいます。
しかしハテ…不思議だと思いませんか? ボクたち親世代(団塊)より、ボクたちの方がはるかに物質的にも豊かで社会は安定し、自由度の高い教育を受けているはず。なのになぜ、現代人の方が「不安」で「無力」と嘆いているのでしょうか?
その答えを、イリイチは「貧困の近代化(Modernized Poverty)」という衝撃的な言葉で説明しています。
「貧しさ」の定義が変わった
昔の「貧困」はシンプルでした。「食べるものがない」「着るものがない」。これは物質的な欠乏です。 しかし、イリイチは現代の貧困は違うと言います。
「基本的な諸要求が、一たび社会によって、科学的に生産された物資への需要で置きかえられると、貧困は専門技術者が気ままに変えることができる基準によって定義されるようになった。」 「メキシコでの貧困者とは三ヵ年の学校教育を受けなかった者であり、ニューヨークでは十二ヵ年の学校教育を受けなかった者ということになる。」
つまり、現代の貧困とは「制度が決めた基準(スタンダード)を満たしていない状態/イメージ」のことなのです。
- 「大学」を出ていないと”貧しい”。
- 「大企業」の「正社員」でないと”貧しい”。
この基準(ゴールポスト)は、会社や学校、またその経営者や教師によって好き勝手に動かされ、吊り上げられていきます。 ボクたちが偏差値や年収に追われて苦しいのは、「誰かが決めたゴール」が永遠に逃げていくからです。その「鼻先人参」…なんと永遠に食べられないと決まっていたんですって!
「心理的不能(Psychological Impotence)」という病
さらに恐ろしいのは、このシステムが僕たちから「自分でなんとかする力」を奪ってしまうことです。 イリイチはこれを「心理的不能」と呼びました。
「制度的な世話に依存する度合がしだいに高まってくると、彼らの無力さに新しい要素が加わった。それは、心理的な不能とか、独力でなんとかやりぬく能力を欠くとかいうことである。」
- 教育: 「学校に行かないと、私は何も学べない」
- 健康: 「医者にかからないと、私は治らない」
- 生活: 「会社に所属しないと、私は生きていけない」
JTC時代、ボクは多くの「優秀な無力者」を見てきました。 会社の看板、名刺があるうち/ところでは威勢がいい(=優秀)けれど、なくなった瞬間に「自分は何者でもない」と感じてしまう。だからゼッタイ外にでない、冒険もしない。
しかしこの感覚こそが、生殺与奪の権を”誰か”にゆだねてしまった「近代的な貧困」の正体です。
こと偏差値が高い優等生ほど、「制度に守られること」に依存してしまい、制度なしで生きる自信(”野生”という自分で生き抜こうとする意思)を失ってしまいがちなのです。
「学校に行かない」ことは、貧困への転落か?
不登校の子供を持つ親が一番恐れているのは、「この子が将来、社会でやっていけず貧困に陥るのではないか?」ということでしょう。たしかに 「学校」という制度的パッケージを受け取らないことは、現代社会では「持たざる者」になることを意味するように見えるからです。
ハテ…ここで視点を変えてみましょう。 不登校とは、イリイチの言う「心理的不能」に陥ることを拒否している、つまり「自ら生きることを選ぼうとした」とも言えませんか?
「学校が決めたカリキュラム(パッケージ)」を拒否し、YouTubeで独学したりゲームで世界中の人と繋がったりしている彼らは、「(親世代の)制度や前例に頼らず、自分で学ぶ独自の能力(独学力)やネットワーク」を維持しようとしているのではないか?
ボク自身、HP(体力・忍耐)がないので学校、および会社でやっていけず、仕方がないのでMP(知恵・スキル)を磨いて生き残ってきました。 会社という制度に「守ってもらう」ことを諦めた瞬間、実に皮肉なことにボクは「自分の足で立つ」感覚や能力を、初めて取り戻したのです
(まあ…本当に立てているのか?は今でもビミョーなところもありますが)
自分の「豊かさ」の基準を持つ(MP全振りの生き方)
「貧困の近代化」から抜け出す唯一の方法。 それは、「他人が決めた基準(偏差値、年収、学歴)」を降り、かつそこからの割り振り飲みに頼らない。そして「自分独自のステータス/特技欄を持ち、注力し続ける」ことです。
イリイチは言います。
「貧困の近代化は…人々の潜在的能力を未開発のままにしておく根本的な原因になっている。」
”誰か”が作った制度の基準を満たすことに必死になって、”自分”自身の「潜在能力(MP)」を封印していませんか?
- 満員電車に乗って年収1000万稼ぐより、フルリモートで年収500万&複業で音楽を作れる生活の方が「豊か」かもしれない(ちなみに実際のところ、年収は減らず増えました)
- 「有名大学」という看板を求め生き残りをかけた受験競争するだけでなく、受験教科以外の独自スキル(趣味特技など)もゆっくり育て保持し
- 「有名企業」に入り従いつまらない残業を重ねるより、定時で帰り独自スキルで複業を得て未来に備える
不登校はこの「価値観の再構築」戦略を練り直すための、貴重なモラトリアム期間なのかもしれません。 制度が押し付ける「豊かさ(実は終わりのない消費)」ではなく、自分にとっての「納得(コンヴィヴィアリティ、同じくイリイチが指摘しています)」を見つけること。それができれば、「偏差値」という呪いは解け、「学校」という幻想の城が”普通の一軒家”くらいに見えてくるはずです。
そのときキミはもう、自分が「貧しい」なんて思わないはずです
次回予告:儀式としての「学校」
サテここまで読んでも、「でもやっぱり、学校に行かないと『普通』じゃないし、世間体が…」など思うでしょう。 なぜボクたちは、中身(学習)よりも、形式(登校)にこんなにもこだわるのでしょうか?
次回は、学校が持っている「宗教的機能」について解説します。 学校は教育機関ではなく、現代社会における最大の「教会」であり、進級や卒業は「洗礼」や「免罪符」だった!?
実際に協会を運営していたイリイチの、過激でユーモラスな「学校=宗教」論を、現代のボクの「へんじん」視点で読み解きます。
第3回:教室という名の「儀礼」。隠れたカリキュラムの正体。 (続く)

