
書籍タイトル: 学歴社会は誰のため
著者: 勅使川原真衣
出版社: PHP研究所
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小学校の休み時間に始まる「親の学歴競争」
本書は、都心の公立小学校の休み時間での出来事から始まります。当時の小学校中学年だった息子が帰宅後、「シャヒリュウガクって知ってる?マッキンゼーって知ってる?」と尋ねてきたことから、著者はその出来事を知ります。
その会話の内容は、子どもの一人が「ねえ、いまからお父さんとお母さんの中学からの学歴を一人ずつ言っていこう」と提案し、自分の親の学歴や社歴(開成、東大、マッキンゼー、社費留学でハーバード・ビジネス・スクールなど)を競うというものでした。
著者は、学歴論を物々しく扱うのではなく、現状を冷静に確認したうえで今後の進むべき道を照らしたいと考えています。特に、学歴の損得や高学歴を効率よく手に入れるための情報(ライフハック的情報)に偏りがちな議論を超え、学歴が労働を采配する仕組みそのものを見直し、代案を示すことを目指します
ポイント: 学歴社会が一向になくならないのはなぜか?
著者は、学歴論を物々しく扱うのではなく、現状を冷静に確認したうえで今後の進むべき道を照らすべく地道に論を重ねていきます。特に、学歴の損得や高学歴を効率よく手に入れるための情報(ライフハック的情報)に偏りがちな議論を超え、学歴が労働を采配する仕組みそのものを見直し、代案を示すことを目指します
また既存システムへの適応策に終始せず、学歴に特別な意味が付与される現場である「労働」にヒントを得て、「学歴を無効化」するための方策を考えることを提案しています。本著での問いは、「学歴社会が一向になくならないのはなぜか?」、そして「誰もが包摂され、生かされた命を全うするために、教育から労働を通貫して議論されるべきテーマは何か?その際の代案はあるのか?」です
この本について
・独自の観点
書籍の強みは、身近なエピソード(小学生の会話)から社会構造的な問題(学歴主義)を掘り下げ、親子の心の課題に接続している点です。
・相対評価
- 理論(抽象) ⇔ 方法(具体): やや理論に特化。学歴主義が社会や個人に与える影響の分析が中心です。
- ドライ(客観) ⇔ ウェット(感情): ニュートラル。現状の競争社会の厳しさを客観的に分析し、親の不安に寄り添いつつも、甘えを排した視点を提供します。
- 今すぐ(短期) ⇔ じっくり(長期): 長期に特化。学歴信仰からの脱却という、世代を超えた価値観の転換に焦点を当てています。
- 当事者目線 ⇔ 支援者目線: 支援者目線に特化。主に保護者に対し、社会的な圧力を子どもの成長に結びつけるための心の持ち方を提示します。
- ポジティブ(肯定的) ⇔ ニュートラル(客観的): ニュートラル。問題の深刻さを指摘しますが、「自分の頭で考えること」の重要性を肯定的に捉えます。
- 発達特性との関連度: 1。個別の特性への言及は少ないですが、社会的なプレッシャーが子どもの学習意欲や存在意義を損なうメカニズムを論じます。
まとめ: これからの「学歴論」―競争から共創へ
「脱・学歴社会」に向けた共創の実践事例を紹介し、議論の焦点を「競争」から「創発」のための情報へと移すことを提言します。
「学歴」という断片情報で「うまくやりそうか」を判断し、結果的に「採用ミス」を嘆く現状は、人口減少社会における労働生産性向上という課題に対処できません。私たちが求めるべきは、「成し遂げたいことに対して、どう人と人や、人とタスクを組み合わせるとよさそうか?」を模索する手がかり、すなわち創発の手がかりとなる情報です。
能力主義は、個人の努力を無制限に強いるため、インクルーシブではなく、人権が守られているとも言えません。著者は、優劣や二項対立的な問いを手放し、物事を”重層的、多面的、複眼的”に検討する「全体性」の視点を持つことの重要性を説きます。学校教育と労働の現場からこと「公正さ」を実現していくことが、「学歴社会」が死語になる道だと提言しています
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スガヤのふせん ~個人的ブックマーク
「学歴社会は誰のためか?」「なぜ学歴社会はなくならないのか?」について、丁寧に大胆に、論を重ねていきます。特に「学歴=能力」を否定的に見ていくことで、真に発揮されるべく「人の価値」と「チームワーク」については、未来の新たな価値観への提言として、非常に重要です。
私が考える教育から労働へと続く道のりは、組み合わせによる創発を知る手がかりにもなるか、否か?で必要な情報が精査される未来です。個人が職場で真空状態にいて、「できる・できない」を試されている一方の話ではない、ということです。
「できる・できない」という能力主義的な見方は、個人が「能力」という幻影を用いて、まるで学力テストを1人でこなすかのごとく、仕事をしているかの錯覚、誤解に基づいた人間観と言わざるを得ません。そこに疑問をもたず、1人で何かを「できる・できない」という能力主義的な単位で、仕事という関係論的なダイナミクスを伴う営みを説明するのは実態に則していないし、無理だからやめようよ、と言っています。(「学歴論争の突破口」より)
こと「不登校になると、社会で通用しなくなる」などの言説を、平気で当事者に浴びせてくる人がいる昨今ですが…ハテその「通用する」とは、どういった前提でのことなのでしょうか?こと「学歴」というそもそものところがチグハグな「社会」で、さらに幻影のような「能力」を語ろうとする、その議論自体が不毛で噛み合っていないのです。
そんな旧来「学歴x能力」論で「社会」を語る既存勢力がいる一方で、筆者の周りにはたしかに着実に理解者が集まってきています。踏まえてもう一度公平に、前提を取っ払ってどんな働き方でありたいか?どんな社会でありたいか?そのため必要な教育とは?学校制度とは?の新しい議論を重ねていける…そんな希望が見えてきそうな一冊です。

