不登校ブックガイド|不登校論の研究 本人・家庭原因説と専門家の社会的責任

・書籍タイトル: 不登校論の研究 本人・家庭原因説と専門家の社会的責任
・著者: 山岸竜治
・出版社: 批評社
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目次

当事者を傷つけた「原因論」への批判

本書は、不登校問題の歴史において、最も痛ましく、長期間にわたって当事者を苦しめてきた言説への「批判の書」 。その批判は主に不登校問題の”専門家”たちに向けてられています 。

著者は、1960年代から1990年頃まで多くの専門家が主張してきた、「不登校は本人の性格や親の養育態度に問題があるから起こる」という本人・家庭原因説を俎上に載せます 。この原因説が、不登校の当事者、すなわち子ども本人やその親を傷つける性格の言説であったことを明確に指摘し、なぜ専門家によるそのような主張が自制できなかったのかを問いかけています

本書は、過去の専門的な言説が当事者に与えた傷を直視し、問題を社会構造や専門家の倫理的な責任へと広げる、極めて学術的かつ倫理的な一冊です。

ポイント: 「本人・家庭原因説」の批判と専門家の責任

本書は、その基本的性格が「批判」にあり、主に不登校問題の専門家に向けられています 。その批判の核心は、長期間にわたって当事者を傷付けた本人・家庭原因説が自制できなかった理由を問うことにあります

  • 批判の対象: 本人・家庭原因説: かつて不登校問題の専門家の多くは、不登校の原因を「本人の性格や親の養育態度に問題(悪いところ)があるから起こる」と主張しました 。おおむね1960年前後から1990年頃までの話です 。
  • 当事者への影響: この説は、不登校の当事者、つまり子ども本人やその親を深く傷付ける性格の言説でした 。著者は、人を傷付けたことを理由に、専門家を批判しています 。
  • 研究の構成: 本書は、全3部9章の構成で、不登校研究が始まる頃までの歴史研究から、不登校の子どもがどのようにして専門家による干渉や処遇の対象となっていったのか、そのプロセスを探っています 。第2部では、本人・家庭原因説の主張と放棄について、その理由が考察されています 。

この本について

・独自の観点

書籍の強みは、不登校をめぐる「言説の歴史」を深く掘り下げ、現在の問題の根源が過去の専門家の言動にもあると、倫理的な視点から指摘している点にあります。

・相対評価

  • 理論(抽象) ⇔ 方法(具体): 理論(抽象)に特化。不登校をめぐる言説や社会構造を学術的に分析します。
  • ドライ(客観) ⇔ ウェット(感情): ドライ(客観)。過去の文献を基に批判的に論じ、感情論を排した客観的な分析に徹しています。
  • 今すぐ(短期) ⇔ じっくり(長期): 長期に特化。過去の歴史を研究し、専門家の倫理的責任という長期的な課題に焦点を当てます。
  • 当事者目線 ⇔ 支援者目線: 支援者目線に特化。主に不登校問題の「専門家」の倫理と社会的責任を問うています 。
  • ポジティブ(肯定的) ⇔ ニュートラル(客観的): ニュートラル。批判的な視点に立ち、不登校をめぐる言説の歴史を解体的に分析します。
  • 発達特性との関連度: 1。個別の特性や支援方法ではなく、専門家による「原因論」の歴史と責任を論じるため、低評価です。

まとめ:専門家の「権威」を疑う

本書は、保護者や当事者が「専門家の言葉」を無批判に受け入れるのではなく、その「権威」と「論理」を常に疑い、問い返すための、強力な批判的視座を提供します。

専門家や支援者が、その「善意」にもかかわらず、過去に当事者を深く傷つけてきた歴史を学ぶことは、現在の支援者が犯しがちな倫理的な過ちを避けるための最大の教訓となります。

この書籍は、不登校という問題が、常に「誰が悪い」という犯人探しに陥りがちであることを示し、親が「おどらず、どうじず」の姿勢を保ち、目の前のわが子を傷つけないための、哲学的な防波堤となるでしょう。

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スガヤのふせん ~個人的ブックマーク

実は”戦前”から存在していた不登校の、「原因」をめぐる様々な紆余曲折を、実に丁寧な調査と検証で現代まで辿ってきた、まさに魂のこもった一冊で大変読み応えがありました。こうしてみれば、今はなんとなくまとまりつつある不登校の”原因”および”対処”を巡って、本当に様々な言説が飛び交い、そのたび右往左往する”当事者”がいかに大変であっただろうか…と忍ばれます。それに引き換え、当時”専門家”たちのポジショントークたるや(まあ、だいぶ筆者の批判的かつ皮肉が加えられているので、ここは割り引いて読んだほうがよいかもしれません)

  • 結論からいえば、児童精神医学や臨床心理学の専門家による本人・家庭原因説の主張は妥当性を欠いていた。なぜなら、本人・家庭原因説には「比較対象群との検討の不在化」という方法的な不備があったからである。本人・家庭原因説にはいわば裏付けがなく、それは、本来、いまだ仮説段階にあるとみなすべき原因論であったとも言える。したがって、その主張は自制されるべきであった(「結論」より)

「専門家の言葉」は確かにありがたいですが、その背景には当然専門家の”イチ個人”としての意見や背景や立場がぎっしり詰まってるのだ、ということがよくわかりました。踏まえてまずは”目の前の我が子”をただ、ひとつの確かな存在として見つめ続けること。

専門家の指摘や意見は「その次」、まして世の中とか知らない誰かの”親切で言ってること”などは、どんどん聞き流していきましょう。

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