書籍タイトル: いじめと不登校
著者: 河合隼雄
出版社: 潮出版社
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「いじめは悪いこと」と、画一的に語り切ればよいのか?
「昔は今より、いじめは少なかったのか?」「うちの子の不登校は、”いじめのせい”か?」
不登校やいじめといった問題は、子どもの心の弱さや家庭環境の失敗といった「個別」の理由では片付けられません。
本書は、日本の臨床心理学の第一人者である河合隼雄氏が、当時の社会現象を日本文化の深層構造(ユング心理学)から読み解いた、示唆に富む論考集です。
著者は、不登校とは「学校に戻すべき逸脱」ではなく、社会の無批判な前提と「個性の排除の構造」への子どもたちからの命がけの「問題提起」であると捉え直します。この書籍を読むことは、保護者自身の価値観を揺さぶり、子どもを真の自立へと導くための覚悟を養う哲学的な機会となるでしょう。
ポイント:画一化が招く排除の構造と父性の創造
河合氏は、現在のいじめが「昔からあったもの」とは本質的に異なると指摘します。従来のいじめが単純な力の構図であったのに対し、現代のいじめは「みんなが同じことをする」全体主義的な教育の中で、「突出を嫌う日本の悪平等」が働き、集団全体が、和を乱す「個」を排除しようという強力な構造を持つ点が特異です。
- 母性原理の罠: 日本社会は、一体感と調和を重視する「母性原理」に支配されています。この原理は、集団内で「みんな同じに」ということを大事にし、和を乱す「個」を排除しようという強い作用を持ちます。
- 父性の創造と通過儀礼: この均質化の圧力に対抗し、子どもを真の自立へと導くために、親が「父性の創造」を訴えます。それは、子どもが「ノー(反抗)」を言える環境を提供し、横道にそれた「悪」をも含めた自力での通過儀礼を許容する姿勢です。
- 「できることをしない愛情」: 現代の親に求められるのは、子どもが「自分で選ぶ」「苦労して手に入れる」という自立の練習の機会を与える、「できることをしない愛情」(何かしない愛情)です。
この本について
独自の観点
書籍の強みは、日本の教育や社会構造を「母性原理」という専門的な視点から根本的に批判している点にあります。これにより、不登校が「子どもの病理」ではなく「社会の病理」であるという認識が深まります。
相対評価
- 理論(抽象) ⇔ 方法(具体): やや理論に特化。ユング心理学、日本文化論、教育哲学の視点から構造を分析します。
- ドライ(客観) ⇔ ウェット(感情): ニュートラル。思春期の心の怖さに寄り添いつつ、日本の教育システムを冷静に批判します。
- 今すぐ(短期) ⇔ じっくり(長期): じっくりに特化。教育や社会の根本的なあり方の転換という長期的な課題に焦点を当てています。
- 当事者目線 ⇔ 支援者目線: 支援者目線に特化。教師や親といった「大人」の認識を問うことに特化しています。
- ポジティブ(肯定的) ⇔ ニュートラル(客観的): ニュートラル。現状への厳しい批判と、新しい教育のあり方を提案します。
- 発達特性との関連度: 2(個別の特性ではなく、「個性の抹殺」という全体主義的な教育システムの普遍的な弊害を論じるため、低評価)。
まとめ:不登校は「通過儀礼」として力に変える
本書の結論は、いじめや不登校といった現象を、短絡的な問題解決でなく、日本人が生き方や価値観の根本的転換を迫られているサインとして捉えることです。
著者は「文部省が悪いとか、学校が悪いとかいうけど、そうではない。”日本人”が悪いんですよ」と問題の根源を指摘します。これは、問題が個人の努力不足や学校にあるのではなく、日本社会全体に浸透した画一的な価値観にあることを示しています。
「いじめをなくそう」という単純な善意や、短絡的な解決を叫ぶだけでは何の意味もなく、子どもの「悪」や「反抗」といったネガティブな衝動の持つ意味を、大人が正面から受け止める勇気が必要です。保護者や教師は、性急な結論を避けて「心はじっくり、じっくり」と、長期的な視点を持つことが肝要であると論じています。
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スガヤのふせん ~個人的ブックマーク
この本における河合隼雄氏は、ワルい。あえて悪ぶっているというか、悪い面を強調しているというか。そのとおり、ボクたちは誰だって”良いし悪い”し、なかで子どもたちは悪いことが好きだ。
日本の教育に関心を持つ人が多い。…誰もが現状を嘆き、何らかの打開策を考える。これほど日本中の人が関心を寄せ、熱心に考えているにしては、日本の教育はあまりよくなったとは思えない。むしろ、だんだん悪くなってきつつある、と思う人が多いだろう。これはどうしてだろう(「あとがき」より)
ひとつひとつ、事件があるたび「例外」をあぶりだし、排他しようとする。ひとつ正せば次、また次…とまるで「モグラ叩き」の様相で、過去あったことはすっかり”なかったこと”として忘れてしまう。
端的に言えば、日本人の意識革命が必要である。日本人の考え方や生き方が、間違っていたとか悪かった、とかいうのではなく、時代の変化に応じて、それに相応する変化をしなくてはならないのである。いじめや不登校が確かに増加して、それはなんとかしなくてはならない。しかし、短絡的に「根絶」ばかり叫んでいても何の意味もない。むしろ、このような現象は、日本人が生き方を変えるように、それを促すための起爆剤のような意味さえもっている。(同上)
いじめも不登校も「根絶」を叫ぶのでなく、それ自体が”何か”を主張し促すためのメッセージなのだとしたら?ボクたちはそれを「なかったこと」として「解消」するのでなく、まして「根絶」するでもなく、その背景にあるものにじっくり向き合い、もっと個と個でいちいち、ぶつかり合ってみればよいのだ(それが氏のいう「父性」だ)。繰り返すが、子どもは悪いことが好きだ。ボクたちもそうやって(?)生きてきたはずだ。子どもたちにもそんな「悪さ」を試し、そこから学ぶ機会があってもよいはずだ、とこの本は語りかけている。

