掲載情報
書籍タイトル: ・「過敏さ・繊細さ」解体新書 ちいさい・おおきい・よわい・つよい
著者: [(著者名)] 出版社: [(出版社名)]
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その「つらさ」は、個性ではないか?
「光、音、においが苦手」「みんなは平気なのに、自分だけはつらい」。子どもの身体が反応してしまう過敏な感覚を、あなたは「我慢が足りない」「気のせいだ」と、無意識に否定していませんか?
本書は、近年注目されるHSP(Highly Sensitive Person)やHSC(Highly Sensitive Child)といった「過敏さ・繊細さ」を、単なる個人の「病理」や「障害」として捉えることを拒否します。そうではなく、その「つらさ」が、時代の変化によって生まれた新しい個性であり、個体らしさに由来するものだと問いかけます。
まず、親としてすべきは、この子どもの「個体性(らしさ)」を、ひとりの人間として尊重する作法を身につけることです。
ポイント:過敏さの解体と「センサー」の理解
鈍、敏、過敏は「個体」により違ってくるはず
そもそも、この世に完全に同じ個体は存在しません。鈍でも敏でも過敏でも、そう”感じる”ことは個体らしさであり、生まれ持った自由であるはず。
本書の「解体新書」というタイトルは、かつての医学書が「神経」「動脈」といった新しい概念を世の中に普及させたように、「過敏さ」や「繊細さ」も、正確に解体され、解説されることで、新たに知られる世の中になるはずだという強いメッセージを象徴しています。
・ 「センサー」の存在を知る: 本書では、人それぞれがもつ「センサー」や内臓器官により、刺激に対する反応が違うことを、大変わかりやすく解説してくれています。親がまず、子どもの「センサー」の存在を知ることが、子どものつらさを「気のせい」としない、他者としての尊重の第一歩となります。
親の「特別」というこだわりを捨てる
親が子どもの特性に対して陥りがちなのが、「特別であれば喜ぶが、特別過ぎると困る」という親都合のこだわりです。
・ 親都合の解体: この本は、親が「子どものために変わらなければ」と個人にこだわるのではなく、社会や時代が「変わる」あるいは「変える」側に回ることの重要性を説きます。過敏な特性を持つ子どもたちが増えているなら、社会の認識のあり方を変えることこそが、真の解決策となります。
この本について
相対評価
・ 理論(抽象) ⇔ 方法(具体): やや理論に特化。HSP概念の社会的役割、時代の変化との関連を分析します。
・ ドライ(客観) ⇔ ウェット(感情): ニュートラル。当事者の感情に寄り添いつつ、概念の社会的背景を客観的に分析します。
・ 今すぐ(短期) ⇔ じっくり(長期): じっくりに特化。自己理解と社会構造の理解という長期的な課題に焦点を当てています。
・ 当事者目線 ⇔ 支援者目線: 支援者目線と当事者目線の融合。当事者の苦しみに共感しつつ、社会のあり方を問います。
・ ポジティブ(肯定的) ⇔ ニュートラル(客観的): ニュートラル。HSPブームの裏側も含め、概念を解体的に分析します。
・ 発達特性との関連度: 5(最高評価。気質・感覚的な特性を専門的に扱います)。
独自の観点:過敏さを「時代の変化」として捉える
・ 構造的な強み: 「過敏さ」を単なる個人の心の問題ではなく、社会における「社会のあり方と無縁ではない現象」であり、社会により定義される相対的なものとして捉え直すことで、「特性」を問い直していきます。
・ 哲学的な貢献: 親が子どもの過敏な特性を「個体らしさ」として受け止め、子どもの持つ違和感を新しい時代を生き抜くための力として肯定するための、深い自己理解を促します。
まとめ:過敏さを力に変え、社会を変える側に回る
本書は、子どもの「過敏さ・繊細さ」を、親が持つ「普通」や「常識」という固定観念を解体するためのツールとして提供します。
親が子どもの過敏さを「個体らしさ」として尊重すること。そして、子ども個人に「変われ」とこだわるのをやめ、社会や時代が「変わる」あるいは「変える」側に回る視点を持つこと。それが「過敏さ」で苦しむ人たち、過敏な特性を持つ子どもたちが、少しでも楽になる受け容れを作っていくでしょう。
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スガヤのふせん ~個人的ブックマーク
「感じすぎてしまうのは、障害や病気とは違うのか?」 それら「説明する言葉」について、最新の研究からわかりやすく解説してくれるのが本著。まさにかつての「解体新書」のように「過敏」や「繊細」について、「そういうことだったのか!」と人体の仕組みとして理解できるようになるはずです。
かつその感覚を受け容れるか?問題とするのか?は不運にも「社会」に委ねられており、「言葉」になることで受け容れられていきます。
幼少より自分が「周囲とズレ」ている、「どこかおかしい」と不安に感じていましたが、成人してからようやく「自閉スペクトラム症」と診断されました。それまで「怠惰」「悪意」「横着」な人間と周囲の人に理解されていましたが、専門家による「自閉スペクトラム症」という診断は、それら「汚名の返上」の機会になったといいます。(P.23)
たとえば(そういえば)「花粉症」も、そんな一例ですよね?
一方で「診断名にある「救済」とふたつの罠」という章では
うつ病、発達障害しかり、医師の認めた診断名がつくことで、親だけでなく、こどもの救済にもなることもあります。たとえば「長期化する不登校は、親の工夫やこどもの努力が足りない」という偏見に対して「不登校になったのは、うつ病(もしくは発達障害)のためです」となれば、「私のしつけや教育のせいではなかったのだ」と親が楽になり、こどもを認められるようになることで、物事がうまく進む場合もあるからです。
しかし、この「救済」には、私はふたつの罠があると思っています。
ひとつは、診断名があたえられると、親の安堵が得られるかわりに、こどもは病や障害のある当事者として生きなくてはなりません。その結果、一人の人間としてではなく、たとえば「私は発達障害だから、こうなんです」と、自分を否定しすぎたり、社会が期待する障害者としての役割に縛られる弊害が出てきます。
もうひとつは、診断名を受けとった「治療対象」として、こどもが管理される対象になるということです。そうなれば、薬を飲まされるかもしれません。繊細で不安が強いこどもは少なからずいます。診断名がなければ、「デリケートなところがあるね」ですんでいたことも、症状として管理されるのです。(P.113)
このように、あらゆるカテゴリー、診断名には「加害性」があることを、とくにこどもに対して慎重に考える必要がある、とも指摘されています。
このように世界的に、これら「特性」に関する認知は非常に揺れ動く、大きな変動期にあります。確かなもの、相場、「こういうもの」と言った準拠枠がないなかで、その”微妙で曖昧”な存在を認め、まずは受け容れられる知識と共感性を持つことが、新たな時代に向けて大切になってくるのではないでしょうか?

