
おすすめする読者:
・ 「すべて自分が悪い」「自分の努力が足りない」と自責の念に苦しんでいる方
・ 真面目で、外部の支援者や家族に「頼ることができない」と悩みがちな方
掲載情報
・書籍タイトル: 生きることは頼ること 自己責任から弱い責任へ
・著者: 戸谷 洋志 出版社: 晶文社
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真面目な親子ほど縛られやすい「強い責任」
不登校の親が「自己否定」のループに陥ってしまう要因は、社会が押し付ける「強い責任」(自己責任論)の概念にあるのかもしれません。真面目で、子どもに真摯に向き合おうとする親ほど、「自分がすべてを解決しなければならない」「外部に頼ることは甘えだ」という強い責任論に過度に束縛され、孤立し、身動きが取れない不自由な状態に陥りがちです。
哲学者の戸谷洋志氏は、この重い鎖を解く鍵として、「弱い責任」という概念を提示します。不登校は、親の自己犠牲的な「強い責任」によって、かえって問題が硬直化してしまう現代の病理であると、本書は問いかけます。
「強い責任」からの脱却は、親子の関係だけでなく、社会との関わり方にも大きな風穴を開け、「共有される責任(弱い責任)」の新たな可能性に気づくきっかけを与えてくれるでしょう。
ポイント:「自己責任」からの解放と「他者を頼る」正当性
本書は本来、背負うべきではない心理的な重荷(自己責任論)から親を解放し、社会的な連帯への抵抗を解いていきます。
責任の在り方を解放する「中動態」
「中動態」という考え方が、この「責任」の在り方を根本から見直すきっかけを与えてくれます。「する/される」という対立的な責任論から解放され、責任を「共有されるもの」として捉え直す視点です。
責任の重さに押しつぶされ、身動きが取れない状態こそが最も不自由として。この哲学的な視点を得ることで、親子の関係だけでなく、学校や支援者など社会との関わり方にも大きな風穴を開けてくれるでしょう。
「弱い責任」が切り拓く、再接続への第一歩
本書の提唱する「弱い責任」の概念は、責任を引き受けることと、他者を頼ることが決して矛盾しないことを論理的に示します。
責任を引き受けることは、他者を頼ることと矛盾しない。むしろ、自分のキャパシティを考えず、仕事を抱え込み過ぎてパンクすることこそ、無責任である。筆者には、こうした考え方が不合理だとは決して思えない。しかし、私たちの社会には、それを認めない言説も存在する。それが、「自己責任論」だ。(「はじめに」より)
この哲学は、私たちが早々に「助けてほしい」と他者にSOSを求め、問題解決のプロセスを他者と共有すること。それが親自身の心を救うだけでなく、子どもの言葉にならない苦しさを共有し、子どもが社会に再接続するきっかけにもなるという、「頼ることの正当性」を与えます。
この本について
相対評価
・ 理論(抽象) ⇔ 方法(具体): 理論(抽象)に特化。哲学的な視点を提供し、根本的な責任観の転換が核です。
・ ドライ(客観) ⇔ ウェット(感情): ドライ(客観)に特化。社会構造と倫理から論じます。
・ 今すぐ(短期) ⇔ じっくり(長期): じっくり(長期)に特化。親の心の土台を長期的に支える思考のガイドとなります。
・ 当事者目線 ⇔ 支援者目線: 支援者/社会目線に特化。親・子の関係性を超えた社会のあり方を問います。
・ ポジティブ(肯定的) ⇔ ニュートラル(客観的): ニュートラル(客観的)に特化。社会倫理の構造を冷静に分析します。
・ 発達特性との関連度: ★☆☆☆☆ 1(不登校を社会構造のテーマとして扱うため、個別特性への言及は直接ありません)。
独自の観点:自立と責任の哲学
- この本は、不登校の親が抱える最大の心理的負担である「自己責任論」を、社会倫理の観点から解体する哲学書です。
- 自己犠牲的な努力をやめ、問題を他者と「共有」すること。それは、親自身が動じない「レジリエンス」を獲得する第一歩であり、子どもの社会との再接続を促すための最も倫理的かつ効果的な行動です。
まとめ:心の重荷を降ろし、新しいストーリーを紡ぐ
不登校に直面した親が、自己否定のループに陥る最大の要因——それは、「すべて親の責任」という強い責任感です。この指摘は、この重い鎖を解く鍵として「弱い責任」という概念を提示します。
この本が提供するのは、「あなたが抱えなくてもいい重荷」を下ろし、心を自由にすることから始めるための「思考方法(哲学)」です。親が「弱い責任」の正当性を理解し、問題を他者と「共有」するとき、子どもは他者からの強制ではない、内発的な力で自立の道を歩み始めるための勇気を得るでしょう。
この考え方は、当サイトの独自スタンス「どうじず(孤立せず、ゆるく、多数とつながる)」の最も強力な理論的支柱となります。
スガヤのふせん ~個人的ブックマーク
ボクたちは”弱い”。子どもだけでなく、大人だって弱い。なのに「いつも完璧であらねば」という強い…強すぎる責任感が、ボクたちを”無駄に”頑張らせてしまう。そしていくつかの物事は、悪循環にハマってしまうのだとして。
弱い責任とは、自分自身も傷つきやすさを抱えた「弱い」主体が、連
帯しながら、他者の傷つきやすさを想像し、それを気遣うことである。そうした責任を果たすために、私たちは誰かを、何かを頼らざるをえない。責任を果たすことと、頼ることは、完全に両立する。
しかし素直に見回してみれば、社会はそんな”弱い”主体の集合体で、そもそも「頼ってはいけない!」なんて言ってない。いや、言ってる人もいるけれど(オンラインに多い)、でも素直に「助けて」と言えば、実は救いの手を差し伸べてくれる人たちばかりではないか?そうではないとして、でも困ったときこそこうした考え方を前提としてみても、よいのではないか?(2人に1人…いや10人に1人は必ずそういう人がいるはずだ!)
もちろん、その助けにより難所を乗り切れたのだとすれば、今度は貴方がその救いの手を差し伸べる番だ。結果こうして社会的に”手”がつながっていくなら、その方がよい社会だと言えるのではないでしょうか?

