ボクが生まれたのは1977年。ちょうどこの年に、「脱学校の社会」の翻訳版も刊行された。
そう…ボクの体内には、「脱学校の遺伝子」が組み込まれていたのだ。
「学校」は”蝋人形工場”だった?!HP1の僕が、7回の転職と100冊の本の果てに見つけた「生存戦略」
はじめに:HP1、MP全振り。「へんじん」の生存戦略
ボクはいわゆる「社会不適合者」…かもしれません。
RPG(ロールプレイングゲーム)のステータス画面風に言えば、「HP(体力・忍耐・同調性)」は限りなく”1”に近い。満員電車に乗るだけで瀕死になるし、意味のない会議には3分と耐えられない。同じ場所に座っていられず多動傾向が強く絶対音感があるため雑音雑BGMには耐えられない「靴下」を履かされると行動不能に…などなど。
その代わり(…と言っては意図的に感じられもしますが”しょうがなく生きるために”)、「MP(知性・魔力・工夫)」にステータスを全振りして生きてきました。
「変・辺・編」集者として、あるいは作詞作曲家として。コロナ禍のはるか前から「在宅勤務権」を主張し、出社回帰の圧力には転職で対抗し、気づけば7回の転職を経て、現在は独立して”ここ”に至ります。
”ここ”とは何処か?それは「へんじん」のボクが今、なぜか「不登校」の研究をしているという世界線です。
それは7年前のとある不登校生徒たちとの出会いと探求がきっかけで、ちょうどその頃に「脱学校の社会」(イヴァン・イリイチ)という”呪いの書”に遭遇してしまったからです。
なぜ今、50年以上も前に書かれた一冊の難解な哲学書について語ろうとしているのか?
それは、この本が「預言の書」であったからです。
といっても、つい先日の例のお騒がせ書物的な意味ではではありませんwこの本は、学校という巨大なシステムに傷つき、悩み、立ち止まっている”キミ”たちが、そんな学校に支配されず「自分の足で立ち歩んでいくため”最強の生存戦略”の指南本」だったのです。
そう!ボクたちはずっと「学校」により支配され蝋人形にされてしまっていたのです!そしてその”呪い”を解き放つ魔導書こそ、この『脱学校の社会』だったのです!
「お前も蝋人形にしてやろうか!」デデデデデデデー(♪OP入ル)
…と(ヒジョーに大げさに煽って)言ってますが、ボクは個人的に「学校」に恨みがあるわけでなくむしろ感謝しきり。しかしそんな「学校に感謝」すら、本当はややおかしい?話でもあるわけです。
極論すれば、「学校に行かない」という選択はむしろ逃げや怠慢ではなく、新しい時代の「賢者」への第一歩なのかもしれません。
そんな「脱学校の社会」の”解読(それなりに難解で独特なので)”の記録を、数回に渡ってひらいていきたいと、ふと思ったのです。
「JTC」で感じた強烈な違和感の正体
以前、いわゆる「JTC(Japanese Traditional Company:伝統的な日本企業)」の真骨頂とも言える某大手企業から、プロダクトマネージャーとしてスカウトをいただいたことがあります。 提示された条件は悪くありませんでした。しかし、結論から言えばボクは早々に、その会社を去ることになります。
理由はシンプルです。「話が通じなかった」からです。
彼らが見ていたのは、目の前ボクの「実存」ではなく、「成績(肩書、ラベル)」でした。 彼らが求めていたのは、市場を変える「スピード」や「成果」ではなく、ましてやその仕事による「意義(意味)」でもなく、社内の稟議を通すための「根回し(過程)」、および仕事を指示通り正しくやってのけたという「体裁」だったようです。
「会社に来ること」自体が仕事だと思っている人たち。 「会議に出ること」で何かをした気になっている人たち。休みなく長く精力的に働いたこと自体が「偉い」ことだと主張する人たち…
この違和感の正体は何だろう? なぜ”優秀”とされる大人たちが、こんなにも非効率な「儀式」に疑問を持たないのだろう?
この違和感はそういえば、別のところで誰かが言ってました。そう…当時の”生徒たち”です。
そしてそんなボクたちを嘲笑うかのように?!イリイチは以下のように約50年前に預言していたのです。
多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直観的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。
過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するとかいった論理である。(『脱学校の社会』第1章より)
ボクたちが苦しんでいたのは、この「手段と目的のメダパニ(混乱)」魔法。そして「頑張ればいつか成功する」というマヤカシ…の具現としての「会社」という存在。
そしてこの「学校編」「会社編」というゲームが、ボクたちがプレイし続けるソフト(「蝋人形の館 ※仮」)だったのd「お前も蝋人形にしてやろうか!」デデデデデデデー(♪OP入ル)
イリイチの警告:「過程」と「目的」を混同するな
改めて、イヴァン・イリイチは1970年の時点で、「現代社会OS」が抱えるバグを鋭く予言していました。 彼は、こと「学校教育」の最大の問題点はカリキュラムの中身ではなく、学校という制度そのものが生徒に刷り込む「ある錯覚」だと指摘しています。
少し難しい言葉ですが、引用します。
「彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。 (中略) このような論理で「学校化」 (schooled) されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること(中略)だと取り違えるようになる。」
これこそボクが、”学校的”JTCで感じた違和感の正体でした。
- 授業を受けること(過程) = 学ぶこと(目的) ではない。
- 出社して会議にでて残業して = 仕事をすること(目的) ではない。
学校で「皆勤賞」を褒められ「授業態度」を評価され続けてきたボクたちは、いつの間にか「過程をこなすこと”自体”に価値があり、それが「勉強」であるとずーっと刷り込まれてきていたのです。
イリイチはこれを、「想像力の学校化(schooling of imagination)」と呼びました。 「制度(学校や会社)を通さないと、価値あるものは手に入らない」という思い込み。これこそが、ボクたちの生きる力を奪っている呪いの正体。そしてそれと引き換えに差し出したのが、「想像力」でした。
なぜ、偏差値が高い優等生ほど「指示待ち蝋人形」になるのか?
「学校化」に吸い上げられた「想像力(の代替品)」は、大人になっても僕たちを縛り続けます。
イリイチはこうも言っています。
「あくせく働くこと自体が生産活動であるかのように誤解してしまう。」
JTCで出会った「優秀な人たち」は、まさにこの呪縛の最たる被害者だったのかもしれません(もちろん彼らに対して悪意や恨みはありますん)。 とにかく彼らは、与えられたカリキュラム(業務命令)をこなす能力は極めて高かった。偏差値教育の勝者ですから、テストの点数を取る(=言われた通りの正解を出す)ことは大の得意です。
しかし「正解のない問い」を前にした途端、彼らは思考停止します。「先生(上司)、次は何をすればいいですか?」「教科書(マニュアル)はどこですか?」
彼らは無能なのではありません。「教えられること」に慣れすぎて、自ら想像し、またそのため学ぶことを忘れてしまったのです。 自分の頭で考え、自分の足で歩く前に、「カリキュラム」という補助輪を与えられ、規定のレールしか走れなかった弊害です。
…というようなディスr ”指摘”を、ボクでなくイリイチ先生が約50年前言っていたのです。(繰り返します、ボクではありません!)
サテそう考えると…今「学校に行かない」あるいは「行けない」と感じている”キミ”たちは、一体何なのでしょう? キミたちはこの巨大にして強固な、「指定された成功への”過程(というレール)”」から外れてしまいました。
キミは本当に「脱落」者…なのでしょうか?
「不登校」は脱落ではなく、「脱学校」という”新しいゲーム”の始まり
イリイチは指摘します。
「学習のほとんどは教えられたことの結果だとする(中略)幻想」
学校に行かなくても、たとえばキミはゲームを通じて、戦略的思考やチームワークを学ぶかもしれない。 悔しさと引き換えにその世界を支配する「アルゴリズム」を、またはハックする「攻略法」を見出せるかもしれない。そしてプログラミングを覚え数多「バグ」を克服する精神力を蓄え、新たな制作物を生み出すのかもしれません。
それらはすべて立派な「学習」です。学校という「過程」や免状付きの「承認」を経由していないだけで、「実存」としての学びはそこにあるのです。
ボクが「HP」を捨てて「MP」に全振りし、会社という組織に頼らずひきこもr ”フルリモート”で生きていけるようになったのは、「学校的な価値観(過程への評価)」を捨て「自分の価値(実体)」で勝負する覚悟を決めたから…と言えばカッコいいですが、でもそうやってでも生きてこれました(ボクの場合は上述の「ゲーム」でなく「音楽」でしたが)
学校に行かないキミは、今まさに、既存の社会が用意したレールから外れ、道なき道を進もうとしています。 それは怖いことかもしれません。保証もありません。 でもそこは「誰かに支配され評価される」軍事的世界ではなく、「自分で道を探り価値を作る」冒険的世界…なのかもしれません(もちろん冒険ですから、未知や危険はつきものですが)。
さて長くなってしまったので、一旦ここでセーブしましょう。
この『脱学校の社会』という”ゲーム”では、不登校の”キミ(主人公)”がある日学校という名の工場から抜け出し、自分の「作品」を作り上げていくためのヒントをいくつも教えてくれますから、ぜひもう少し今一度、リロードしてみてくださいね。それでは!
次回予告:「偏差値」という”高いほど不安になる”呪いの正体
さて、「学校は工場だ」とわかっても、やっぱり不安は消えないと思います。 「でも、いい学校に行かないと、いい会社に入れないし、貧乏になるんじゃないか?」
その不安の正体について、次回は掘り下げます。 イリイチが提唱した**「貧困の近代化(Modernized Poverty)」**という、恐ろしくも本質的な概念について。
なぜ、文明が発達し、全員が高校や大学に行くようになったのに、僕たちは昔の人より「貧しさ」や「無力感」を感じるようになってしまったのか? そのカラクリを知れば、君の「不安」は「自信」に変わるはずです。
第2回:「貧困の近代化」。なぜ、偏差値が高いほど不安になるのか? (続く)
筆者:スガヤタツオ 1977年生まれの編集者 / マーケター / 作詞作曲家。 JTCからベンチャーを経て独立。HP低め・MP全振りの「へんじん」。 「no-mark」にて不登校・教育のオルタナティブを研究中。
special thanks to ある悪魔閣下と「蝋人形の館」(ボクはあなたに憧れ早稲田大学政経学部を目指すという”学ぶ目的”を手に入れました。でも落ちましたけどチーン…)

