掲載情報
・書籍タイトル: 思春期ポストモダン:成熟はいかにして可能か
・著者: 斎藤環
・出版社: 幻冬舎
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「成熟」の困難さと社会の問い
不登校の背景に、子どもが「大人になりたくない」「社会に出たくない」という『成熟の拒否』があるとしたら、親としてどう対処しますか?
不登校の原因について、子の「自立の遅れ」や「無気力」として片付けてしまう端的な言説もあるなか、この書籍は現代社会で「まっとうな大人になること」自体がなぜこんなにも困難になっているのか?という構造的かつ本質的に課題を掘り下げます。
現代の学校生活において「成果」や「成功」ばかりが語られる中での「まっとうさ」とは、それら期待や要求に答え続けることでしかありません。もし「人間として、自分らしく」生きる(生き方を探り続ける)ことが「成熟」の証ならば、学校という閉鎖的な空間に留まるよりも、社会と関わり合うことの方が重要となります。
本書は、「成熟」が困難になっている原因を、子どもの内部要因も踏まえつつ、社会の構造的な課題、特に均質性と成果主義が支配する環境に求めます。
・「大人になることを強いられる」社会(均質性): 現代社会は、若者に画一的な「まっとうな大人」というモデルへの組み込みを要求します。こと学校という場は、その「まっとうさ」を測るための均質な規範(ルール、序列、集団適応)を強制するシステムとして機能します。本書が指摘する「社会参加を前に立ちすくむ」若者とは、この均質的な規範に「適応できない/適応することを拒否している」状態を指します。
・「病理」をもたらす原因(成果主義): 本書は「非社会化=未成熟」と特徴づけられる現代の若者問題を扱っていますが、これは社会が若者の未熟さを許容しつつも、同時に「成果」や「成功」という外部的基準を内面化することを強いる成果主義的な圧力が原因となっています。
子どもたちが「まっとうな大人」の規格に組み込まれることを拒否しているという視点は、不登校が単なる個人的な「不適応」ではなく、現代社会への応答なのかもしれません。
ポイント:「過保護」からの脱却と成熟への処方箋
「過保護」という罠と成熟の拒否
本書では、「過保護・過干渉」や「母子密着」といった家庭環境が、不登校やひきこもりを助長しやすいと指摘。親の過度な愛情と介入が、子どもの成熟の機会を奪うというパラドックスを乗り越える視点が必要です。
・ 親の姿勢の転換: 親が子どもの課題をすべて先回りして解決し、安全な空間に閉じ込めてしまうことは、子どもの成熟の機会を奪います。親は、子どもを「助けてほしい」という明確なヘルプ(”何を”、”どのように”助けてほしいか)が出るまで、あえて介入を控える姿勢が必要です。
「社会への追い出し」と自立の獲得
親が子どもと適切な距離をとる方法は、「社会の構造がわかる場へと子を”追い出す”」くらいの覚悟が必要です。
・ 成熟の場所: 成熟は、安全な場所で親に守られながら起こるものではなく、社会と関わり合う中で、自分の限界や他者の存在を知り、自己を構成し直すことによって可能になります。
・ 思春期と社会: 「非社会化=未成熟」と特徴づけ、この未成熟を許容する社会と、そこで「大人になることを強いられる個人との『関係』」が病理を生むと論じます。こと本著では「家族からの脱出こそが”成熟はいかにして可能か”という本書の根本的な問いへの回答になるはずだ」と示唆しています
この本について
相対評価
・ 理論(抽象) ⇔ 方法(具体): 理論に特化。「成熟の困難さ」や「思春期の居場所」といった哲学的な概念と社会構造の分析が核です。
・ ドライ(客観) ⇔ ウェット(感情): ドライに特化。社会学的、心理学的な分析が中心で、客観的な考察を重視します。
・ 今すぐ(短期) ⇔ じっくり(長期): じっくり(長期)に極めて特化。「成熟」という長期的な課題への向き合い方を提示します。
・ 当事者目線 ⇔ 支援者目線: 支援者/社会目線に特化。現代社会が思春期をどう扱うべきか、という社会全体への提言が中心です。
・ ポジティブ(肯定的) ⇔ ニュートラル(客観的): ニュートラル。社会の構造的課題と成熟の困難さを冷静に分析します。
・ 発達特性との関連度: ★☆☆☆☆ 1(思春期の普遍的な課題が中心であり、特性の個別的な言及は直接ありません)。
独自の観点:自立と責任の哲学
- 思春期・青年期のさまざまな問題および「生きづらさ」について、広い範囲で詳しく、その根本原因も含めて”若者目線から”分析されています。
- 構造的な課題: 子どもの「自立の遅れ」を親の「自責の念」として抱え込むのではなく、成熟の困難さが社会の構造に原因があるという視点を提供し、親の心の重荷を解消します。
- 哲学的な貢献: 親の過保護・過干渉を解体し、「社会との関わりの中で自立する」という哲学を強く裏付けます。
まとめ:親の役割は「自立を信じる」ことにあり
不登校の根底にある「成熟の困難さ」を、親は個人の問題として責めるのではなく、社会全体の構造的な課題として問い直してみる。なかでこの本では、親が子どもを「まっとうな大人」の規格に無理に合わせようとするのではなく、「成熟とは何か」という普遍かつ本質的な問いに向き合うためのガイドとなります。
親がすべきことは、家庭を「安全な居場所」にしつつ、子どもが外の世界と関わるための支援をしていくこと。なかで不登校からいきなり「慣れないアルバイト」で挫折を味わわせるでなく、「プールのような安全な場所からで、十分に練習を積んでおくことが望ましい」など、考え方だけでなく回復過程に応じた具体的な方法論についても論じられており、大変参考になる一冊です。
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スガヤのふせん ~個人的ブックマーク
斎藤環先生は「ひきこもり」をご専門とされるなか、「対話」について最近「イルカと否定神学」という大変読み応えのある本を敢行されています。その数年前に書かれたのが本著なのですが、関連付けるならば「社会との対話継続の重要性」が語られているのが本著だったのかな?と思いました。なかで「思春期のリアル」をとらえるために
ただ観察するだけでは、何が流動的で何が普遍的であるかはみえにくい。だからこそ「関係」が重要なのだ。関係性の中に身を置くこと、ひたすら関わり続けること、そうした関わりのなかで「関わり方」「考え方」を常に更新し続けること。(P.228)
こそ大切と解かれています。
「ひきこもり」が社会、また「不登校」が学校および家庭との”分断”により起こってしまうエラーなのだとすれば、それら三極のなかで改めて「再接続」を探り、また”対話可能性”を広げ保持してあげることこそが、親ができる「成熟」へと繋がる支援の一歩となるでしょう。
あと(これは各論よりな話題となりますが)著書内「不登校の分類は役に立つか?」というパートにおいて、不登校が時代とともに増加しさらにその多様性が増すにつれて「さまざまなタイプ分類が試みられてきた」ことへの疑問を提示されていて
不登校をよく知らない人に、おおよしどんなタイプのものがあるのかを具体的に知ってもらううえでは意味があるだろう。しかし率直に言えば、それ以上の意味はあまりないように思う。僕が知る限り、こうした分類は結構流動的で不安定なものだ。不登校の治療では、関わりを持つなかで子どもの状態像も変わっていくことがよくあるからだ。(P.168)
なるほど「対話」から様々症状を分析、また解決されておられる、斎藤氏ならではの重要な指摘だと思い、ふせんを挟んだ次第でした。
平素から、不登校であってもなくても家庭での「対話」や「雑談」は大切にしていきたいところですね。

