ブックガイド|学校と日本社会と「休むこと」

本書は、日本社会に深く根差した「休まないことを美徳とする」規範を、学校教育と労働環境という二つの側面から深く掘り下げた一冊。特コロナ禍をきっかけとした意識の変化に焦点を当てながら、現代社会が直面する「長時間労働」「過労死」そして学校における「不登校」といった構造的な問題の根源を、歴史的・社会的に考察している。

本書の核心は、「休むこと」は単なる個人の選択ではなく、社会全体で取り組むべき喫緊の課題であるという強いメッセージにある。みんな、休もう!

目次

日本社会と「休むこと」

「休むこと」についての意識変化

日本社会においては、「体調が悪くても無理をしてでも働き続ける」ことが美徳とされてきた歴史がある。この価値観は、戦後の高度経済成長期から形成され、勤勉さや忍耐強さが個人の評価に直結する文化として浸透した。しかしその根強い意識は、コロナ禍によって大きな転換点を迎えることとなった。パンデミックの拡大は、個人の健康が社会全体の安全に影響を及ぼすことを明確にし、37.5℃以上の熱があれば休むことが「ルール」として求められるようになった。この強制的な変化は、「休むこと」に関する社会全体の議論を加速させたのである。

しかしコロナ禍を経験したからといって、根強い意識が容易に変わるものではなかった。実際、2020年8月に行われた意識調査では、風邪症状がある場合に学校や職場を「休む」と答えた人が増加した一方で、「休みたいが休めない」と答えた人が全体の4分の1、さらに「休まない」と答えた人も4分の1に達し、合わせて半数にも及んだ。このデータは、表面的な意識変化の裏側で、依然として「休むこと」に対する根強い抵抗や、社会的な圧力、あるいは非正規雇用者のような経済的・制度的な制約が存在していることを示唆している。著者は、コロナ禍が収束した後も、「具合が悪いときにはきちんと休むこと」が当たり前の社会になることを願うと同時に、その実現には社会全体の意識・行動変容が不可欠であると改めて問題提起している

日本社会の働き方

次に日本の長時間労働の歴史と、「過労死」という特異な社会問題を生み出した背景について。戦後の高度経済成長期には、土曜日も半日勤務する「半ドン」が一般的であり、休まず働くことが社会の規範であった。しかし1980年代以降、週休二日制の導入や労働基準法の改正により、一日の労働時間は8時間、週40時間へと移行した。

…にもかかわらずバブル経済の崩壊後、企業は人件費削減や生産性向上を追求した結果、週休二日制が形骸化し、週休日も働くことが常態化していった。この状況は「サービス残業」や「ブラック企業」など現代の深刻な労働問題へと繋がっている。「長時間労働への依存」は一見すると経済成長の原動力に見えたかもしれないが、実際には働く人々の心身の健康を蝕み、過酷な労働実態を生み出す温床となった

教員の場合

公立学校の教員は、「精神疾患」を理由に1年以上休職する者が多い。特にその割合は昭和末期以降継続して増加しており、この事実は教員の過酷な労働実態を示唆している。精神疾患で休職や自殺に至る事例において、公務災害認定を受けるための裁判等が長期にわたる問題も指摘されている。

また初任教員の約4割が1年以内に退職しており、この中には精神疾患などの事例も含まれている。初任者教員の過重な負担は深刻であり、指導担当の同僚教員や管理職の支援の不足が大きなストレス要因となっている。こうした教員の長時間労働は、個人の問題ではなく「構造的な問題」として捉えられている。定額働かせ放題と揶揄される給特法や、膨大な事務作業、部活動指導など、教員を取り巻くブラックな労働慣行が、過酷な労働実態を生み出している。

2017年2月、公立小学校の一クラスの児童数の上限が40人から35人に引き下げられることが決まり、新たな必要となる教員は5年間で約13,000人となります。ところが、教員不足は さらに深刻さを増し、文部科学省が初めて実施した調査によれば、2023年度始業時点において、全国で5,258人もの不足が明らかになりました。様々な報道でこの事実を知った方も多いでしょう。
「教員の不足」は全国で起きていることですが、その不足のまま相当期間(場合によっては一年近く)、 人員が補充されないということが起きているということになります。これは15人で戦うラグビーに例えれば、欠員1名のまま14人で戦うようなものです。しかもこの欠員を残りの教員で補わなければならないことによって生じさせる過重労働から、もう一人(つまりは2人目)が休むという状況が起きています。
(P.73-74)

恐ろしい状況です…一体この先どうなっていくのでしょう?

学校教育と「休むこと」

「皆勤賞」という存在

学校教育において、「休まないこと」(皆勤)を奨励する文化が根強く残っている。その象徴が「皆勤賞(一定期間内、休日以外に一日も欠かさず出席・出勤することを称賛するもの)」であり、学校によっては遅刻や早退についても細かな規定がある。この皆勤賞の存在は、生徒に対して「具合が悪くても無理をして登校すること」を暗黙的に要求してきたと言える。

コロナ禍を契機として、皆勤賞を廃止した学校がある一方で、依然として皆勤賞を続ける学校も存在する。静岡県の掛川市立北中学校では、アンケート調査の結果を踏まえて2020年度から皆勤賞を廃止したが、別の調査では「皆勤賞の廃止は必要」という反対意見も多く見られた。皆勤賞は、単なる表彰制度ではなく、「頑張ること」に価値を置く日本社会の規範を学校教育が引き継いでいることの表れだと著者は指摘している。

「出席停止」という規定

学校保健安全法に基づく**「出席停止」は、インフルエンザなどの感染症の拡大を防ぐために校長が命じる措置である。コロナ禍において、「出席停止」(感染症)と、「欠席」(病気や経済的理由など)の取り扱いが混同されたり、新たな「新型コロナウイルス感染回避」**という項目が設けられたりした。

著者は、この「出席停止」の規定が、労働社会における「勤務間インターバル」や高校野球の「球数制限」など、強制的に「休むこと」を命じる制度と構造的に類似していると指摘する。問題はいずれも、個人の意思とは関係なく、健康や安全を守るために制度的に「休むこと」を要求する点。記憶に新しいのがコロナによる出席停止で、このとき強制的に「休むこと」を経験した生徒が、これまでの「休まない美学」に疑問を持つきっかけになった可能性がある、と指摘している

関係ないですが「勤怠」とかも、変な言葉ですよね?

学校の部活動におけるガイドライン

文部科学省や中央教育審議会は、教員の長時間労働是正の観点から、部活動のあり方に関するガイドライン(週2日以上の休養日など)を策定し、休養日や活動時間の制限を定めた。

しかしガイドライン導入後も、多くの部活動(特に吹奏楽部など)において、土日を含む長時間の活動が常態化している実態が調査で示されている。部活動における生徒の参加は、「はつらつ系」(本人が好きで打ち込む)と「忍耐系」(指導者から強制される)の二つの側面を持つと指摘されている。長時間の活動を強いられる「忍耐系」の側面は、生徒の健康を害するだけでなく、日本社会の「長時間労働への依存」を再生産している。

「休むこと」について考える

「欠席」からみた戦後学校教育

戦後教育史において「学校へ行かなくてはならない」という「通念」と、「学校を休むことは悪いことだ」という「既習」の意識が、教師と児童生徒の間で継承されてきたと著者は主張する。この「休まない美学」は、戦後の復興と経済成長を支える勤勉な労働者を育てるための「しつけ」として機能してきた側面がある。

しかし1980年代後半以降、長期欠席(不登校)が増加傾向にあるというデータは、この「通念」と「既習」が揺らぎ始めたことを示唆している。

具合が悪くても休まない学校教育

戦後の学校教育が「学校に行くべき」という意識に支配された結果、具合が悪くても休まない状況が長期欠席(不登校)問題の背景にあると著者は分析する。文部科学省の1996年度調査では、長期欠席の理由として「病気」を挙げた児童生徒は少なく、多くが「学校嫌い」あるいは「登校拒否」とされていた。これは体調不良による欠席が、個人の(精神的な)問題としてすり替えられていたことを示唆している。コロナ禍以前から、体調不良の場合でも「頑張って休まない」ことが奨励されていたが、これは労働社会が求める「勤勉さ」を学校が「しつけ」**として生徒に課してきた結果であると推察される

 「休むこと」についてのルールと無知学

日本社会における「休むこと」に関するルールは、「無知学」あるいは「無明」(ルールを知らされていない、または知ろうとしない状態)によって守られてきた側面があるという論点は興味深い。有給休暇の義務化や勤務間インターバルの努力義務など、「休むこと」に関する権利や制度が法的に整備されても、それが強制ではなく”個人の自発的な努力”に委ねられてきた。

これはフランスのバカンス制度(長期休暇)が国民の権利として法制度化されていることと対照的である。日本においては、「休むこと」は義務でも権利でもなく、個人の「気働き」や「忖度」によって守られてきた側面が強く、これが長時間労働の温床となっていると著者は指摘する。

学校教育における「しつけ」

学校教育における欠席や遅刻に関する「しつけ」は、「休まない美学」や「休む美学」といった、社会の規範を児童生徒に伝える機能を持ってきた。この「しつけ」は、将来的に労働環境で「休まないこと」を要求される状況で、生徒が不利益を被らないように準備させる側面があったという議論は、日本の教育の持つ社会化機能の奥深さを物語っている。

しかし教師の長時間労働是正や、部活動のガイドライン策定といった労働社会の動きが、学校教育における「休むこと」のあり方に影響を与え、これまでの「しつけ」の再考を迫っている。過重労働や過労死防止に向けた労働社会の動きが、学校教育における「欠席」や「休むこと」のあり方にどのような影響を与え得るのか。そして、学校は労働社会の「長時間労働への依存」を再生産するのではなく、「休む美学」を「しつけ」として伝えることができるのか。本書は、こうした問いを読者に投げかけている。

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