- 以下で述べるのは、学校を批判する意図ではなく、不登校からの復帰において(教師の負荷軽減のためにも)、学校に余計な/必要以上の期待をしない、また自主的に学ぶ意欲と手段を持ち備えるという、前向きな提案によるものです。
前回のコラムでは、「なぜ?」という問いを封印し、対話を「地上戦」に戻す具体的な技術を習得しました。これにより、目前のコミュニケーションの問題は解決に向かいます。
しかし一歩引いて俯瞰してみると、子どもが学校に行けなくなる背景には「常に正しい正解を求める」学校的価値観や、学校のシステム疲弊(たとえば教員の不足や多忙)といった根深い構造が横たわっています(これは本当に「子どものほうが悪い」のでしょうか?)
「不登校」を単なる「再登校を前提とした長期休暇」と捉え続ける限り、私たちはシステムが作り出す矛盾と不適合から、永遠に抜け出せません。
よってこのコラムではもう一段視座を持ち上げ、イヴァン・イリイチ(※アメリカの有名な学者です)らの「脱学校論」の視点を借り、不登校を「学校というシステムからの健全な一時離脱」と捉え直します。これは「自律とは依存先を増やすこと」という熊谷晋一郎先生の言葉のとおり、どれか一つに過度に依存せず、リスクを分散し、精神的な安定を得て自立した状態を目指すことを意味します。
ちなみに冒頭タイトルの「生殺与奪の権を…」は「鬼滅の刃」で有名なセリフですが、これは物語冒頭における「自分の生死や運命を他人に委ねず、自分の人生の主導権を自分で握ろう」とする、非常に重要な示唆でした。ではこと私たちは、本当に”自分の生死に関わる”と言っても過言ではない「学び」の権利を、自分で握れているのでしょうか?
当サイトでは、この「不登校」という困難な経験を、教育に対する無批判な前提を疑い、真の”自律(自分の学習は自分でやっていくこと)”へと向かうため、ポジティブな機会と考えています。不登校を「失敗」ではなく、「自律のための第一歩」と捉えたいのです。
さて、不登校という「出だし(問い)」はよいとして、しかし持続のため「方法」または「哲学(論理的準拠と実践)」が必要です。そのための様々を、以下で考察します。
…と言ってもしばらく「難所」が続きますから(勉強会も通常、何回も区切って行っています)、お忙しい方は先に「まとめ」を目指してください。要は「(学びという)生殺与奪の権を”学校”に委ねるな」と、ややカッコつけて言いたいだけですw
1. 「学校的価値観」が子どもにもたらす疲弊とあきらめ
実は「学校」というシステムには、かつてから構造的な矛盾が指摘されています。前述のイヴァン・イリイチは、人々が「価値の制度化」を進めることで、学習や健康といった価値そのものが、病院や学校という「サービス」によってのみ得られるものだと誤解してしまうと指摘しました。
- 学習と教授の混同:生徒は、教授されることと学習すること、進級することと教育を受けたことを混同するようになります。これにより、知識の習得ではなく、「制度が要求するプロセス」への順応が目的化されます。
- 登校の自明性の低下:かつて学校が持っていた「聖性や絶対性」の文化が衰退した結果、「何のために我慢して学校へ行かなければならないのか」という問いが子どもたちに生まれ、登校行動の正当性や妥当性が揺らいでいます。
- 心理的不能化:イリイチが危惧したように、制度に依存する度合いが高まると、子どもたちは「独力でなんとかやりぬく能力」を失い、「心理的な不能」に陥ります。
…やや難しいですが(勉強会でも、いつもここが難所です)、シンプルに言えば「学校でないと学べない、学校に行かないと生きていけない」と思い込んでしまうのです。ですから「不登校」は、この制度的依存に対する、子どもからの命がけの抵抗/抗議である、と捉えることができます(子ども自身は「そんな大げさなことじゃない!」と言うかも知れません。しかし形や根拠のない「権威」への違和感と言えば、もう少ししっくりくるかと思います)。
2. 抵抗の哲学:「制作の行為化」と真の学習
この学校的価値観、つまり「グレート・ゲーム(拡大や成長あるのみ!という一方向的なゲーム)」というシステムに対抗するため、ハンナ・アーレントという哲学者は、人間の基本的な活動を「労働(Labor)」「制作(Work)」「行為(Action)」の三つに分類し、こと「制作」と「行為」を推奨しました。
- 制作(Work)の意義:制作は「作品」を通して、自分の感情や意見を世界に働きかける活動です(最近盛んな「探究学習」は、まさにこの「制作」の領域に含まれます)。受動的なだけでなく、能動的に”自ら語る”ことで学ぶ意義がより深まり、また意欲も高まるのです。
- 現代の課題:しかし現代社会では、上述の「グレートゲーム」的な学習ばかりで、「制作」も市場で売られる「労働」に飲み込まれてしまい(「それでいくら儲かるの?」「食べていけるの?」)、「つくる」こと自体の快楽や、それを通じた世界への関与の実感が失われがちです。こと探究学習も、授業の一環として行われる限りでは、「評価(受験)のため」と目的そのものが組み変わってしまう課題が指摘されています。
- 「もっと制作を!」の提案:これでは「評価(点数)」や「承認(褒められる)」がなければ学習しない(したくない)となり、やがて私たちは自主的な学習そのものをやめてしまいます。そうならないよう「制作」を通じて、学ぶ楽しみや喜びを取り戻す必要があります
そこで私たちは、不登校期間を利用して子どもの「好き」な趣味/活動(たとえばプログラミング、工作、絵画など)を提案してきました。これは単なる「遊び」ではなく、他者との対話や共同体との関わりとなり得るからです。これにより、不登校を「逃避」から「自己表現による世界への再接続」へと捉え直し、本人も再び自信をとりもどしていけます。
実際この取り組みはある程度上手く行っていて、保護者の方から「図書館に通うようになり、自分で本を借りてくるようになった(今までマンガすら読まなかったのに!)」「間違っても諦めず、粘り強く続けられるようになった」などの変化が報告されています。
3. 「クリエイティブ・ラーニング」の意義
そうしたなかで、私たちが一歩進んで提案したいのは「クリエイティブ・ラーニング(創造的学習)」です。不登校期間の学習”だからこそ”、学校ではなかなか体験できない、既存の画一的な知識伝達を離れ、真に「主体性」を回復する学習にどっぷりハマってみる。「クリエイティブ・ラーニング」(※井庭崇氏らが提唱)は、その理想的な形を示します。
- 「遊びと情熱」を核に:この学習哲学は、「遊び(Play)」や「情熱(Passion)」を原動力に、「公的に共有できる成果物(Project)」をつくる活動を重視します。これは、学校教育で失われがちな、個人的な興味関心に基づく深い探求の時間を取り戻す試みです。
- 失敗の肯定:プログラミング教育が示すように、失敗(エラー)は減点対象ではなく、学びの機会です。創造的学習とは、失敗を恐れることなく、試行錯誤を通じて自由で柔軟な発想力を磨くプロセスにほかなりません。
より具体的に言えば、「プログラミング学習」が上記に当たります。もちろん学校でも同様の授業が行われますが、あくまで授業(評価/承認を伴う活動)の一貫です。そうではなく、「やりたいから、やる」「楽しいから、続けたい」「もっとできるようになりたい」という自主的な感覚を取り戻し、学習意欲を回復させていきます。こと元々ゲームが好きだった子どもたちとの相性は非常によく、とある体験者は「これまでの受動的なだけ時間が、システムを能動的に解釈しようという姿勢に変わった」「頻繁に「このアルゴリズムは…」と言い始めた」など報告されています。
また学校的価値観(グレート・ゲーム)における「失敗」や「間違い」は、下手すると命取りとなります(たとえば受験の失敗や落第)。しかしプログラミング学習における「バグ」は”発生する前提”であり、それを修正することで”よりよい”作品へと変わっていきます。つまり失敗(バグ)は恐れず、むしろ積極的な学びの機会へと変えていけるのです。このことで子どもは「打たれ強くなる」や「”たまたま”成功しても、わざわざ立ち戻って確認する」など、行動を変容させていきます。
まとめ:「脱学校」から「自律」の感覚を取り戻す
このように「不登校」を「脱学校」に、また「授業」からの離脱を「自主学習」の開始へと捉え直してみます。すると不登校は、個人の内面的な問題でもシステムの失敗でもなく、「自分の学び方を選び直す」という主体性の回復プロセスとなり、ガラリと風景が変わってきます。実際(上記で紹介した)「プログラミング学習」にハマったとある生徒は、「最近は、休むどころか忙しい!」など感想をもらしているようです。
こうした姿勢は「自律」に向けた活動と解釈され、最近過半数を占めるようになった「AO入試」などでは積極的に評価の対象となります。評価される目的でなく行ったことが、最終的に評価される。まさに「遠回りこそがもっとも近道だった」というところでしょうか。
なにより「不登校」という困難な経験を、社会の無批判な前提を疑い、真の「自律」へと向かうための哲学的な機会に自ら変えていくこと。この感覚は、今後社会人として活動していくうえでも必要で、逆に持ち得ない人たちからの称賛に変わっていくでしょう。
ここに私たちが「不登校」というテーマを、ただ受動的に「やりすごす」だけでなくむしろ「利用してやる」という、意欲的にして貪欲な態度への変換を提案する理由があります。これこそ共に探求したい、最も重要な価値…なのですが、私たちもまだ道半ばです。
当サイトでは、この活動に賛同し、一緒に学びを探求する仲間を募集中です。もし当コラムを読んで「やってみたい!」と思われた方は、気軽にご一報ください。

